『春の絵』を読む

つまだちに鶏が押す風のカンナ「茗荷のなか」

魚の眼に濡れっぱなしの月通る「茗荷のなか」

はくれん化のはな母乳たらたら垂れ「白猫」

鴉ああ口中昏い椿咲く「白猫」

にょきにょき脚生え顔生え梅雨の洋館「白猫」

葡萄食べおわり青い火花残る「白猫」

渓ふかく沢蟹が咲く姉無口「白猫」

春の絵の片すみに置く鶏の首「喉あかく」

花を焼く母のししむら刺すために「喉あかく」

きつね雨茸山も赤子も眠りけり「喉あかく」

琵琶僧は墓標となって秋の風「喉あかく」

 

鳥の死と靴

鳥の死のごとく白靴干されをり

干した靴が鳥の姿と似ていると言われればそうかもしれない。空を飛ぶ鳥に人は憧れるが、空を飛べても小鳥に天敵は多い。自由と危険は隣り合わせと言うべきか。靴は人にとっての自由な行動の象徴であり、その自由の靴と死の間の類似を見つけた感性に驚く。たやすく死ぬ小鳥を私はかなしみ、哀れむ。そして、小鳥より少し長く生きる。

 

少年少女

少年と少女の句は頻繁に登場する。「少年少女」からどの段階の子を思うかによっても、幸福かどうか印象が違いそうだ。幼い子供であれば悩みもまだ少なく、幸福の純度が高いだろう。思春期に近づくにつれて、体の成長と心の成長のずれが大きくなり、ぎこちなさなど軋みも生まれてくる。

マフラーの少年やはらかく捩ぢれ

少女かなし聖夜天使の役を演ず

マフラーの捩れに少年の落ち着かなさ、複雑な心情を見る。しかし、尖ったり荒れたりするわけではない。やわらかい捩れなのだ。後半の句跨りも内容に合っていると思う。

無垢に生まれた子供も成長するとともに、世俗にまみれてゆく。それでも人は子供や女性に聖性を求め、期待に沿おうとその役割が演じられる。人間にとって聖性は重過ぎる荷ではないか。

十五夜の少年手首より病めり

何事にも過敏になり、自分自身を持て余す時期を思う。思春期は一種の病とも言えるだろう。十五夜という大きな光に照らされ、少年が抜き差しならない状態にあるように思えてならない。何かをしてしまった後の手首ではないかと想像が走るのも十五夜ゆえだ。

抱擁は

かはほりや抱擁はこんなかたちで

「抱擁はこんなかたちで起こる」と続くのだろうか。挨拶の抱擁なら出会う時や別れる時とタイミングが計れるかもしれない。だが、こみ上げる愛情や欲情からの抱擁に予定も筋書きもない。走り出した気持ちを体が慌てて追いかける。「かはほり」というひらがなに皮や骨まで見えてきた。

幾本の紐跨ぎをり夜の素足

幾本の紐とあれば、やはり久女の「花衣脱ぐやまはる紐いろいろ」が思われる。紐のある処には辛抱や抑制がある。着ていくのか脱いでいくのか、場面の切り取りが巧みだ。

小鳥きて昼のからだをうらがへす

小鳥きて昼のからだをうらがへす

仰臥だと思う。昼寝にしては寝返りを打ったりして寝ている様子ではない。昼のからだはきっと女の体で、男が裏返したというより、女が自分で裏返ったと思う。昼はいっそう外が気になる。小鳥など来ればなお意識はそちらへ逸れる。自分の体が伏せても仰向いても他人事のようだ。あたかも小鳥が転換を引き起こしたかのように読める描きぶりも面白い。主体自身のというより、天体の意志に従って体が動くようだ。

第五節には次の句もある。

一瞬の夏わたくしをうらがへす

この句には仰臥ではなく、立ち姿を想像した。風が吹いて陽が陰になるような、例えば母の顔であったのが娘の顔に、女の顔から家庭人の顔に戻ったりするような切り替わりだ。この句は自分の変化を司っている落ち着きを感じる。作者の俳号が詠み込まれた粋な一句だ。

 

『一対』を読む

小西瞬夏句集『一対』〈いちまいの光と影 若森京子〉 - KAIGEN 海原

によると、集中蝶をモチーフにした作品は四十二句もあるという。

てふてふの脚より生まれかなしめり

てふてふが誕生したのだろうか。蝶ならば肢、脚というからには人ととりたい。ならば、脚より生まれたのは作者自身で、この句は自画像ではないだろうか。作者を蝶の化身と呼びたくなるほど、蝶に彩られた句集なのだ。ただ、もとより人はみな脚より生まれてくる。この句の「かなしみ」は個人的なものであると同時に、そこにとどまらずより広い範囲にも及ぶことに気づく。

てふてふを白き凶器として飼へり

てふてふは凶器であり、狂気である。狭軌かもしれない、驚喜かもしれない。凶器として飼っているけれど、凶器として手にすることはきっとない。凶器として使用する可能性だけを恃んでいる。